たまゆらびと 室生犀星
ちよつとのあひだに
どうかしたはずみに見える美しさ
このひとがこんなものをもちあはせ
それを見せてくれた瞬間は
何かのはずみとしかおもへない
それは何処にしまはれてゐたものだか
いまはあたり前の顔つきをしてゐる
柔らかでつぶれさうである
<小池昌代編纂「おめでとう」より>
何かのはずみにふとこぼれでた、女の人の美しさ。
一体全体、どんなものだったのか、
なんら具体的にも書かれていない。
言葉にはなりえぬもの。
わたしたちが「詩」を信じるとは、
このようなもののありかを信じるということだろう。
詩人の小池昌代さんが編纂された詩集はいくつか出ている。
ひとつひとつに↑の解説のような文章が添えられている。
こちらがまたいい。
音楽も好きなのだけど、
最近つくづく自分は活字人間だと思うことがあって、
なおさらこういうものにひきつけられる。
食えないヤツだと思われるけど、
正直言葉になってないと感動しにくいところがある。
言葉にしてやっと意味がわかり、いいじゃん、と思う。
野生の中で、猿のように育ったのに、
人間のようなものになれたのは、
両親がたっぷり慈しんでくれたのと、
いろいろな本を読んだからだろうと思う。
しかし、相反することをいうが、
あたしの場合、大事なことは身体が判断する。
いろいろなことを経験してきた勘のようなもの。
一時それに猜疑心を持って、
もう少し理論的に生きようと思ったこともあるのだが、
やっぱり感覚に戻ってくる。
大事なことは身体が覚えている。
教えてくれる。
「勘」とは常に進化している。
霊感とかスピリッチュアルなどに近いものかもしれないが、
そうも言いきれないところもある。
魂のようなもの、といった方がいいか。
失敗をし、うまくいかなくて、
もちろんうまくいくこともあって、
きっと魂も磨かれ続けてきたのだろう。
少し自分を信じてやろう。
そう思えるようになって、
また「勘」を信じて野生児のように生きている。
詩集「ありがとう」の中に、
ペドロ・シモセの「手」という詩がある。
その詩を読んだ時、ああこの詩はJONTEの詩だ、と思った。
これは美しい手をもつJONTEの「MORE」か。
いやひとつの顔だ。
「手」は欲望の切っ先。
いろいろなことをする。
パラパラと読んだ詩に、ふと気になる言葉や表現が見つかる。
その時、すでにその詩はあなたの詩だ。
好きな詩はこうして繰り返しブログにUPしてしまいます。
いくつか好きな言葉を抱えて生きるのはいいもんです。
画像はアーティストルンヒャンさんのインスタよりお借りしました。
美しい手をしてるくせに、
乙女のような顔をして、
わんこを慈しむわがJONTE。
でも「MORE」の顔もあって。
いろいろな顔があって、ライブに行くとなかなか楽しい。
ビルボードでは弾けてたし、
そこにいるというだけで、
全身全霊で愛を伝えてくれていて、
世界から広く深く愛されてる感じがしたなあ。
またライブに行きたいぞお。
まっ、ジョンくん!
と、ドン引きするような歌、
早く歌ってくださーい。
待ってます。